片桐の歴史

剣岳と片桐盛之助

 

日本の山岳登山の歴史・・・それは、日本山岳会創立期の登山家たちの遠征・登頂にかける情熱とチャレンジ精神の歴史でもある。
当時、日本を代表する登山家達の遠征を装備面で支えていたのが、『片桐の親父』と呼ばれていた片桐盛之助である。

1914年(大正3年)・鉄砲洲の帆布屋からザック屋へ

登山用品専門店・片桐の前身は明治初年、初代・片桐貞盛が、隅田川の鉄砲洲で興した、ヨット・帆船の帆を製造する帆布屋・片桐商店であった。当時の隅田川には輸送手段として、帆船・ヨットが日々往来し、片桐商店の創る帆は、その機能性と丈夫さゆえ、広く普及していた。後に盛之助の妻となる美枝子は、父・貞盛の縫製した帆を張ったヨットを操縦する盛之助を初めて見たとき、「これぞ、海の男だ」と思ったと・・・・語っている。

海のない信州で生まれ育った美枝子は、帆船が往来する隅田川を初めて見たとき、海と勘違いしたのである。現在の隅田川からは想像できない壮観な景色だったのであろう。帆布屋・片桐は、大正3年(1914年)、日本山岳会発起人の一人である高野鷹蔵氏より、『片桐の丈夫な帆布でヨーロッパ風のリュックサックの製造してほしい』との依頼を受けた。貞盛と盛之助親子が製作したリュックサックは、その背負いやすさが評判となり、当時の日本山岳会の主たるメンバーからの注文が相次いだ。これがザック屋・片桐商店の始まりである。

日本で初めて、キスリング型リュックサックを製造

昭和4年(1929年)、2代目・片桐盛之助のもとに、槙有恒氏松方三郎氏が、スイスのヨハネス ヒューク キスリング氏の考案・製作したザックを持ち帰り、それをもとに、盛之助は、日本で初めて、キスリング型リュックサックを製造した。
このキスリングにより、片桐は、登山用品製造のパイオニアとして、多くの登山家からの信頼と支持を得ることになった。

鉄砲洲から、新富町、そして神田へ移転

昭和初期に隅田川沿いの鉄砲洲から、京橋・新富町に店舗を移転。これを機に帆布製造から全面的にザック製造へと転身した。以後、海外、および日本の多くの登山家からの注文により、改良を重ねながら、今日に至っている。盛之助は、キスリング製作に加え、テントの考案・製造にも意欲的に取りかかり、次々と極寒の地にも耐えうるテントを製作した。その評判は、後に南極観測隊やエベレスト登頂隊などの装備を任せられる基礎となった。その間、店舗は新富町から神田へ移転した。

山岳雑誌・『山と渓谷』創刊号の出版

昭和5年(1930年)、『山と渓谷』の創刊号が発売された。片桐は創刊号から現在に至るまで、『山と渓谷』に広告を載せている。

 
『山と渓谷』

 

創刊号・2号に掲載されている、片桐商店の広告(山と渓谷・創立50周年記念の復刻版より)

早稲田大学山岳部出身の川崎吉蔵氏が卒業後、職探しをしている時、ふらりと神田の片桐に立ち寄った。その時、盛之助が言った『山登りが好きなら、山の本を出版すれば良いじゃないか』という一言がきっかけで、川崎氏は山岳雑誌の創刊に向けての準備を始めた。以来、山と渓谷と片桐は出版社と広告主という関係以上のものが続いている。

登山家のステイタス・M.KATAGIRIの刻印

神田に移転した当時の片桐のザック背カンには、日本山岳会隊員でヒマラヤの巨峰、マナスル(標高8156m、世界8位)の初登頂に成功した佐藤久一朗氏デザインによる『M..KATAGIRI 19○○ KANDA TOKYO』の刻印が刻まれていた。この刻印のあるキスリングを背負うことは、日本山岳会のメンバーはじめ、多くの高校・大学の山岳部員のステイタスでもあった。

1936年(昭和11年)製造のザック・大町山岳博物館収蔵

このM.KATAGIRIの刻印は、現在ではデザイン変更し、ザック類には製造年度を刻んだ背カンに、また、Since1914のロゴマークとしてタウンバック類に縫い付けられている。

一世紀に渡って受け継がれている片桐の手縫い

キスリングの手縫いをする
片桐盛之助

 

超々特大のキスリングは、76x84cm。
背カンには、厚さ4.5mmの革を使用する。
刻印を入れた革を二つ折りにして、裏に当て革を付けてキスリング本体に縫い付ける。
革を使う部分は、合計12箇所、そのすべてを、手縫いでザック本体に縫い付けている。

糸を強く引く際、右手が割けないよう、パームと呼ばれる牛革のバンドと真鋳の指抜きつけての手縫い作業となる。『命にかかわる道具作りだから、一針一針満身の力を込めて縫わなくてはいけない。』・・・これが盛之助の口癖であった。

盛之助が使用していたパーム

 

盛之助が使っていたパームはイギリス製。引き糸にあたる部分は牛の生革である。
糸は、特注の極太麻糸を4本取りにし、白蝋で蝋引き、針は特殊な三角針で手縫いする。

大町山岳博物館収蔵のザック

爺が岳・大町山岳博物館
3階展望台より撮影

北アルプスを一望する長野県大町市にある大町山岳博物館。そこには、日本の登山の歴史を伝える、貴重な登山用品が収蔵されている。フリッツ・イェルク作のピッケルや高橋修太郎製作の登山靴などとともに、片桐製のザックがひときわ目を惹く場所に展示されている。1936年(昭和11年)の刻印がついたもので、キスリング型でありながら蓋付きの今では製造していないタイプのザックである。このほか、7点の片桐のザックが大町山岳博物館に収蔵されている。

また尾瀬の保護で名高い登山家・植物学者でもある武田久吉氏(日本山岳会・日本山岳協会の会長を歴任)の依頼で、貞盛と盛之助が大正時代に製作したザックもあったが、日本山岳会からの委託先変更の申し出を受け、現在は、尾瀬の武田久吉メモリアルホールに収蔵されている。武田久吉氏より依頼されたザックについてはMPSに詳細が記されている。

湯島の片桐

湯島天神下の片桐
2代目・盛之助と5代目・由美子

戦後は、神田から湯島天神下に移転し、株式会社・片桐を設立。スキー人口も増えてきたため、登山用品に加え、スキー用品の販売も開始した。

昭和4年以来、長年にわたり、キスリングザックの代名詞として広く普及していた。しかし、パッキングの善し悪しが背負いやすいさを左右するキスリングに変わって、徐々にヨーロッパ調のリュックサックが好まれる時代となった。

盛之助自身はテントとキスリングの製作を行い、婿養子である3代目・片桐理一郎が、立教大学山岳部時代の経験を生かし、時代にあった背負いやすいザックの開発を行った。

作業場を文京区・千石へ

テント・キスリングザックの製造に加え、登山用品・スキー用品の販売も行うには湯島の店舗は手狭となった。そこで、盛之助は文京区・千石の自宅にミシンを移動し、テントの製作に専念した。湯島の店舗では、理一郎と美智子が、生地の見直しも含め、新しいザックの考案・試作を繰り返した。

南極観測隊と各企業の装備

1956年(昭和31年)南極観測予備隊から現在に至るまで、南極観測隊では片桐のテント・ザックはじめ、隊員が着用する装備が使われている。これは片桐にとって最も誇りとするものだ。多くの越冬隊員たちの貴重な体験に基づた製作面での依頼・指導により、片桐ブランドは進化を続けてきた。

3代目・片桐理一郎の考案したアタックザッククレッターザック・スキーツアーザックなどは、丈夫さと使い勝手の良さで高く評価された。その評判は、登山家だけではなく、資源開発・鉱山発掘に携わる各企業にも及んだ。

3代目・片桐理一郎考案の
ワンダラーザック

 

これまでは片桐のキスリング=茶色の帆布というイメージであったが、理一郎はグレーの9号帆布を使って、新しい形のザックを考案した。底部は革を使用し強度を更に上げた。基本の形はキスリングであるが、蓋を付け、さらに蓋上にもマチ付きのポケットを付けている。

当時、財閥系を筆頭に、重金属工業の海外資源開発や地質調査が盛んな時期であった。それら企業の海外隊に片桐のザックやカバン、隊員装備が使用された。また、氷点下での撮影時、映像器械を守りながら、フィルムを回すことを可能にする理一郎考案のカメラ・カバーは、海を越えてハリウッドまで納品していた。その他、9号帆布で製作した現金輸送用のカバンなどの製作も行った。

主な納品先:
・住友金属鉱山
・三井金属
・三菱製鋼
・宇部興産
・昭和測器
・応用地質
・三和映材
・フジテレビ
・しんきん東京サービス

進化し続ける片桐のザックニュークラッシックの発売

老舗・片桐のザックの極み
ニュークラッシック

 

9号帆布とグローブレザーを組み合わせた理一郎の自信作。
発売当初から現在に至るまで、問い合わせ・注文が後を絶たない。

3代目・片桐理一郎

時代に合ったザック類の改良と同時に、理一郎はオリジナルの登山靴(チロリアンシューズ)の製造をはじめた。
さらに、オーストリア・カナダ・イギリスなどのメーカーと提携し、アウトドア用の衣類の輸入販売などにも積極的に取り組んだ。海外のメーカーとの交渉には、5代目・藤井(旧姓・片桐)由美子があたった。

カナダ製セーター&帽子着用の
3代目・片桐理一郎

 

カナダのメーカーと提携したオリジナルのカウチン・セーター。脂抜きしていないズッシリとした極太毛糸で、保温力は抜群である。カウチン族の狩猟文化を反映した独特の編模様が背中や胸に編み込んである。

山男の集まる片桐の店

独特な煉瓦の新店舗

片桐の店には、毎日、多くの登山家・各大学の山岳部員が訪れ、彼らの憩いの場となっていた。

そんな山男の集まる店であったが、老朽化が進んだため建て替えを行った。新店舗の煉瓦は、3代目・理一郎の拘りの煉瓦である。何度も試作品を依頼し、やっと思い通りの煉瓦が出来上がった。ひとつひとつの煉瓦の膨らみと表面の手触りが、どこか山小屋を連想させる。

ロゴマークの看板

 

新店舗には木彫りのロゴマークの看板が取り付けられた。

4代目・片桐美智子&
5代目・藤井由美子

ザックに新素材を使用

6~10号帆布を中心にザックを長年製造してきたが、昭和40年代後半から化学繊維の技術開発が著しく進歩した。それまでも中厚手のナイロンでサブザックなどを製作していたが、帆布に匹敵する丈夫さがあり、しかも軽量の素材を模索した。

4代目・片桐美智子が選んだのは、セルスパンである。コーデュラナイロンと似ているが、裏側にウレタンコーティングがされているため生地に張りがある。しかも軽量で完全防水である。このセルスパンを表地に、裏地にテトロンコットンを使用し、背面には9号帆布を組み合わせた、新しいザックが完成した。古道である。肩ひも・蓋ひもは、従来の革の代わりにPPテープを使用。これにより、底美錠はアクリルパーツになり、さらに軽量化が実現した。本革の部分は刻印のある背カンのみとなったため、比較的低価格での製造が可能となった。

現在では登山だけでなく、街でもバック代わりにリュックサックを背負って歩く者が増え続けている。片桐ブランドは時代のニーズにこたえて、様々な形のセルスパン仕様のザックを製作している。

店舗の移動

平成16年(2004年)、煉瓦の片桐の周りの土地がドンキホーテに売却され、ちょうどコの字型に、片桐だけが残ることになった。街並みを考慮し、二軒先に移動。看板も『アウトドア用品・片桐』と改めた。

MEETING POINT SQUAREとのコラボレーション・BIG MOUTHの製作

創業以来、初めての試みである。

MPSとのコラボでタウンユース向けのトートバックの企画・製作の監修を行うことになった。四代目美智子が企画・製作の監修を担当し、MPSがデザインと製作現場との調整を行うという、これまでの片桐の歴史にはない新しい挑戦となった。

平成19年(2007年)から始まったこのプロジェクトは約一年を費やして、BIG MOUTH(ビッグマウス)という随所に片桐の精神が組み込まれた完成度の高いトートバックが出来上がった。

このBIG MOUTHというトートバックは、帆布のナチュラル感と皮革のハード感が産み出す、絶妙なバランス感覚をもったバック。コンセプトは“シンプル&タフ”。

キスリングはじめ“片桐”ザックの持ち味であるオールドテイストを充分に残しつつも、全体として上品さを感じさせるデザインに仕上がっている。

~~ 山渓に掲載された広告より

地元、東京湯島を拠点として活動する私たちMPSは、
オリジナリティーを持ったショップやアーティストとの
コラボレーションをもとに、様々な商品の企画販売や
イベント運営、情報発信などを手掛ける、領域横断的な
プロダクションです。

そんなMPSから今回、同じく湯島に居を構える
登山用ザック製造の老舗“片桐”とのコラボレーション
から生まれた、素敵なバッグをお届けします。

~~

※現在このバックは取り扱っておりません。

『湯島の片桐』から『千石の片桐』へ

戦後、湯島に店舗を構えて、60年。
湯島白梅商店街の仲間とともに歩んだ思い出深い60年である。

その土地を離れるのは、大変寂しいことであるが、2代目盛之助の妻・美枝子が平成22年(2010年)7月・101歳で他界した。千石の自宅が常時不在となってしまうため店舗を千石へ移転することになった。

今後は、ザック類・オリジナル登山靴の受注製造に加え、5代目・藤井(旧姓・片桐)由美子の製作するタウンバックキッズ片桐の受注製造を続けていく。

遠見尾根から五竜を望む

このHP開設にあたり、日本山岳会・立教大学山学部OB・山と渓谷社・大町山岳博物館の方々はじめ、片桐ブランドを愛する多くの方々から、資料・情報の提供ををいただきました。
またMPS・松澤良樹氏には、HP製作を全面的にサポートして頂きました。
ご協力いただいた皆様に、心より感謝申し上げます。